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~ 論文 ~



芸能の理由  2018/05/11(金)
薬事法違反行為に関し  2018/05/01(火)
約束と企業連携としての契約  2018/04/27(金)
みそ汁の作り方  2018/02/04(日)
マクロ経済とミクロ集合体  2018/01/03(水)
エクスプレッショニズム  2017/12/29(金)
医療系の管理職がしている事  2017/12/26(火)
貧困と言う問題に関して  2017/12/25(月)
情報が感情に及ぼす影響について。  2017/12/25(月)
料理の味付け理論  2017/11/28(火)


芸能の理由
芸能というのは、本来一般人でない当人が、一般人と同種であるかのように、芸能を繰り広げる特殊なステージである。
そのステージでは、民間人からの不評が当人にとっての職の減衰になる恐れがあるので、その為に、好評を博することを銘打つことになる。

この好評を博するという意味は、受けを狙うという意味ではなく、大衆への博愛であり、多少のフェイクショーにもなり得るのだが、実際は芸能として嘘をついてはならない。大衆は嘘を見抜く。

その為に、ステージに立っている際に、なにかの役になりきるという事は、俳優や部隊演技における常識である。

その常識とは、本来の素の自分ではない誰かが自分の中に存在していることを意味する。しかし、そこではその職能により、多重人格とも呼ばれる心配はない。

要するに、仕事を被写体とされる仕事は、ステージ上の演技と呼ばれるが、そこに虚偽がない時点で、俳優の本人は自分以外の誰かをイメージングにより想像できる、クリエイティブ・アーティストと認識される。

これは、伝統芸能でも同じであり、その伝統の訴えてきた人物像の型になりきらなくてはならない。時間を要する果てしない闘いが、ステージ上の芸人当人に行われるのである。

もし、どぎつい個性が出てしまうのであれば、それは大衆に忌み嫌われる、一般人の一人として、ステージ上からこき降ろされるであろう。
Date: 2018/05/11(金)


薬事法違反行為に関し
病気に関して、現行法による薬剤の販売は、その効用を表記して問題ないという法律がある。
純正なる科学的見地に依る、実証性の確かめられた国家の指定する基準内に該当するものは、法的手続きを取り、申請の結果認められればその公の世界において販売を認められる形式は存在している。
そして、その実証性のありかは、薬剤以外においても認められる情報は存在しているが、公の公示においてそれは法律により許されていない。

そして、現行の西洋医学つまり化学式記号法に依る薬剤開発の諸問題として、その効果が疑わしいものに関しては、ジェネリック医薬品の台頭及び、企画開発の更新によって、淘汰される意味は常も存在し、悪徳商法に限ってはPOLICEの法的執行権をもって処断されなくてはならない。
また、POLICEの権限が向こうにより適用されない場合は、法の準備と純正なる施行権限をもって、各国家の命じる法的議決権をもつ参与委員を通して、議決され法を実施しなくてはならない。

また、人が望むことの要因として、生病労苦の諸問題に関し、人は渇望的視野をもって、これらの糾問を常ならむ状態で、表現の門とするが、その渇望的所野に関しては、哲学的命題への解答をもって対応とする。

その意味は、人は死ななくてはならないことを、認めるべきであり、結局それ以外の範疇は、人が死後どうなるのかという、宗教学の扱う分野になる。 

     以上。             本部琢己。
Date: 2018/05/01(火)


約束と企業連携としての契約
企業の性格として、儲けを主眼でやり、その実数を公開しなく、適度なカモフラージュにより営業益を稼ごうとするやり方がある。たとえば、実際は、大量でも、少量購入を希望している風に見せるやり方。他は、広告において、負担の少なさそうに見せて、実際は大量に金銭を要求するやり方。

これは、企業内の人柄に依る。つまり、顧客との約束を守ろうとするか否か。そして、企業同士における約束手形の有り無しの問題としてある。

人をだますような人間が会社にいる場合、適当な会社の営業となり、多少の嘘をもって、営業益を重ねようとする。その企業が銀行側からの請求に対し、適当なことで対応しているのは、事実だろう。

その際、人間の約束という哲学的命題をもって、企業は策定しなくてはならない。
約束を守らないから、契約違反。そして、犯罪へと赴き、刑法発動となる。

民事争いにも発展しやすい、人間の約束事柄違反は、往々にして、そのような人材で構成される企業群にある。

人間の信頼を裏切らないことに徹する企業は、大企業になれるチャンスがある。

ただ、人間の道徳心として、嘘をついていきていることが、自らにもわるいと見えていない悪性人間が、営業益を求めようとしても、銀行対応すらおぼつかないのは想像できる。
Date: 2018/04/27(金)


みそ汁の作り方
味噌汁というのは、鮮度が肝心であり、味噌が死んではならない。
そして、味噌で味を付けるスープと言う考え方はタブーである。

つまり、だしの時点で、味がしなくてはならず、塩分を入れないそのだし汁に、味を敏感に察知しなくてはならず、味を加えて、みそ汁の全味量を付加しようとしてはならない。

だしの次に重要なのは、素材の煮汁の事であり、野菜の湯出しの繊維質のだしがさらに付加されて、みそ汁の基盤風味を作り出す。

つまり、だし汁と、具・素材のだしが合わさっている状態に、少量のみそを加える概念で、食卓に提出する。

味噌は発酵されたものであるので、その有効なヴァクテリアを死滅させてはならない。

なので、日本料理の中でも、インスタントであるが故に、その鮮度が大事なのである。
Date: 2018/02/04(日)


マクロ経済とミクロ集合体

巨大な資本が動くときがある。

そして、それに付随し、ミクロ達の連鎖がある。

ビッグマネーは主導と副導を繰り返し、調整するが、マネーの本質上、国家が管理体制を持っているとはしても、それぞれの、財布が現場であり、各GDPを基に、また各個人の所有とするマークカランシーの一部ずつが、経済の全体を成している。

企業の含める流動性マネーに関しても、規模は個人より大きいが、それを扱う意思がある限り、その所有による法人的格作用の大きさがある。

よって、国家規模の扱う、セーフティマネー+フレキシブルインディヴィデュアルの両益こそが、経済の目指すべきあり方になる。

そして、経済を不良へいざなおうとするあらゆる思想的・概念的な諸悪に対し、国家は道徳を国民に詰めなくてはならず、緊急時には警察が出動しなくてはならない。

これは、マクロマネーの善的意味合いに対し、世界のミクロズ/世界のマネー総量の分数がどう動くかと言う、巨大な縮図の中に、位置される経済学問である。
Date: 2018/01/03(水)


エクスプレッショニズム

エクスプレッショニズムという概念の元に、人間の表現と言うかたちを再考したい。

表現と言うものを、論理的な言語もしくは言語に近いもので、整合状態にて、繰り出すことを旨とするのであれば、商用のコピーや、ある種の指令系統に関する事項には有効な表現手段となる。

エクスプレッショニズムにおける、表現学は、現実を直接・暗喩にて、表現することを指針とし、人間関係学における防護性をもてば、そのあえての表現をも可能とすることになる。

エクスプレッショニズムを基に、芸術表現・人間関係学の中における表現方法をもたげることは、事実国家の繁栄に従う。

Date: 2017/12/29(金)


医療系の管理職がしている事
医療系という職業は、扱っている作業の対象が人体となる。
そして、先生と言う立場が露骨になっているために、また、薬を処方するが故に、治してやっているという、意味の見当違いな職当たりとなる。

実際は、患者本人の自然治癒力なのであるが、薬をあてがったり、手術をしてやっているという、そして、人間をモルモットのように、検査したり、見下したりすることを常としている。

一個の人間として、人間に接する術もしらない。
一般社会人は、一般の中の人間関係の雰囲気と、自らの市民世界での立場を知っているが、医療系管理職は、狭い範囲内だけの、高給取り・取らずを含めて、患者の社会関係学を知らない。

医療と言うのは、患者が社会復帰を目指すことにあるが、その社会全体に対して、正当で、妥当な見解を持っている、医療系の人間が少ない。

そして、医師会という腐った仕組みにより、経営と言うことを知らない。

一般企業がどれだけ集客とリピートシステムに汗水垂らして、仕事をしているかも知らない。

要するに、医療系管理者は、幼稚であり、常に偉そうでなくてはならないのだ。

それは、先生と呼ばれなくなると、仕事を失うからである。
Date: 2017/12/26(火)


貧困と言う問題に関して
所謂、貧困層の上に立つ人たちはいつの時代も存在する。

このことに、社会問題として取り扱うケース・
そして、個人の責任と問題として扱うケース・
それから、複合的な責務として未来に定義するかたち。

理論的に展開される要素はさまざまにある。

ただ一つ、戦争で貧困が増えるという事にだけは、国家は危機的な状況と、警笛を発し続けなくてはならない。

文化の側面で、また精神医療上の話で、貧困層の問題として、貧困のテーゼとして、揶揄されることはあるが、果たして、貧困が相対的なプロブレムを抱えているというのなら、それはなくなりはしないだろう。

宗教学的な問題で、慈善というミーニングがある。
だが、それも、ほんの一部の人たちの仕事である。

わたしたちが、人に与えるということを学問しなければ、
そして、物の移動や、金銭の供諾ということに、その事後も認識と言う問題を正式に取り扱わなければ、貧困層の問題は無くならない。

なぜなら、貧困と言う問題の裏側に、そうならざるを得ないような、個人的責務が見え隠れするのだから。
Date: 2017/12/25(月)


情報が感情に及ぼす影響について。
情報を人が閲覧するときに、人は脳内に快楽を感じる。

これらの情報は、認知するための情報と言うより、時事・イシューに根差した事柄に関していて、最近の電子機器技術のコマースもこのように仕組まれている。

あえて、有効情報と言う意味において、価値をこの記事では網羅はしないが、果たして有効でない情報にさえ、人はあえてそのような情報に愉悦を感じるのである。

これは、現代における芸能の領域、そして産業の意味の無い噂、そして、知人の類による情報交換が基礎となっている。

今現代以前では、ラジオ・スポーツ新聞・雑誌・固定電話・手紙であった。

それが、現代電子機器における領域に触手と脚を伸ばした結果が、電子端末の画面上の出来事になっている。

そして、情報と言うのは、見た瞬間、若しくは閲覧していくらか期間が経つと、削除されなくてはならない。

この、削除されなくてはならない情報、これらは、ヴァリューの問題とは別体にあり、あえて、価値ある情報には問題ごとが隠されているため、人は好んでは見ない。

価値ある情報にはいわゆる儲け話という側面が隠れている。
ただし、これは有識者にとっての話である。

そして、産業のメディア系が、それ以外のデリートインフルエンスという情報に、始終したとはいえ、それは産業の中の一枠であることが、無意味な大衆の価値基準であるのか、それとも、国家の文化の中にあるのかは、中レベル以上の識者が判定しなくてはならない。

このなかで、中以上の識者とは、社会人であり、会社員である人たちであることは、言うまでもないだろう。
Date: 2017/12/25(月)


料理の味付け理論
料理に於いて鉄則なのは、素材の味である。
これを極めれば、素材の生に対し、塩だけで良いことになる。
元来、採れたてのものに、塩だけが一番うまいのである。

そして、家庭寮に関してであるが、それはおかず理論というものがある。それはご飯を口に運ぶための理由であり、それは、料理の定則ではない。
お弁当であれば、それはしがないご飯を口に運ぶものなので、おかず味付け、要するに、ご飯を口に運ばないといけない塩分の量と、塩の量になる。

しかし、これは食卓に並ぶ料理ではない。
そして、店舗の濃い味付けでさえ、飲料を買わせるためのものなのだ。

本来の料理は、炭水化物を口に運ぶ必要のないものであり、ちょうど、中華の高級コースにご飯がないのと同じである。

ワンプレートであれば、麺類で大量の炭水化物を入れても良いが、いわゆる料理を愉しむためであれば、基本的にご飯は要らない。

では、ご飯を必要とする食卓とは何か。
それは、素材の味を愉しむため。要するに、素材の味を切る為にご飯を口に入れる。ご飯の盛方は少なめで済むのだ。

そして、量を摂る必要がなくなる。なぜなら、素材の味を楽しむのが、食卓であるからである。

つまり、現代の加工食品の中でも、素材の味を消してしまうまでの、調理法、つまり加工調味料の量の入れすぎは、禁断であり、その結果の成人病の類が発生している。

ご飯は、口をゆすぐものではなく、料理の皿ごとの味を切るためのものなのだ。
Date: 2017/11/28(火)


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